復活のアンカー

『嫌われる勇気』の青年になってみた。【哲人募集】

お疲れ様です。アンカー(@anchor_0732)です。

 

今日、嫌われる勇気を読了しまして、図星、反省、納得の連続でした。

 

こちらのツイートでも言ってたように、一点引っかかる部分があったんですね。

 

その点について今回は青年になって、早速書いていこうかなと思います!

 

 

この本のあらすじ

 この嫌われる勇気では、哲人と青年の対話方式で書かれています。

本をあまり読まれない方でも、会話を聞いているように読めるので読みやすいかなと思います。

 

ざっくりと要約すると、青年(私たち目線)が哲人(アドラーの心理学)に対して疑問や討論を投げかけていくストーリーです。

 

青年が日ごろから悩んでいる事や、人生の疑問、アドラーの心理学に対しての疑問などを、哲人がことごとく解決していきます。

 

青年が疑問に思うことは、誰しもが感じたことのある疑問だと思います。

 

変わりたいけど、変われない。その一歩踏み出す勇気がない方にとっては、人生を変える一冊になり得る本だと思います。

 

アドラーの心理学を青年を通して学べる本でした。

 

印象に残った一文

少し印象に残った一文を紹介しますね!

 

『自分が自分のために人生を生きていないのであれば、だれが自分のための人生を生きるのか。』

 

『目標などなくてもいいのです。いま、ここを真剣に生きることが今を生きるということ。』

 

あとがきから

『人間の悩みは、すべて対人関係の悩みであると言っていますが、どうすれば良い対人関係を築けるかを知らないと、他者の期待に応えようとしたり、他者を傷つけないようにして、主張したいことも伝えることができず、自分が本当にしたいことを断念することがあります。

しかしそのような人は、周りの人からの受けは良く、嫌われる方は少ないかもしれませんが、その代わり、自分の人生を生きることができないことになるのです。

 

数々の名言に出会えた本でしたが、読み進めていく中で一つ疑問を抱く一文がありました。

 

本題

その一文がこちらです。

 

自らの主観によって「わたしは他者に貢献できている」と思えること。』

 

自分が他者に貢献することで、自らの価値を実感できると哲人は言います。

 

『つまり他者貢献していくときの我々は、たとえ目に見える貢献でなくとも、「わたしは誰かの役に立っている」という主観的な感覚を、すなわち貢献感を持てればそれでいい。』

 

この意見に私は、ん?となりました。

 

私の意見はこちらです。

 

:哲人がおっしゃっていた、主観的な感覚で他者貢献すればいいとのことですが、その主観的な感覚が、他者の迷惑となり得る行為であっても、自らの貢献感を満たすためであれば構わないということですか?

これが哲人の言う「嫌われる勇気」ということでしょうか?

 

例えば、Aさんがこの本を読んで他者貢献をしようと決意し、本来Bさんの仕事である仕事をAさんがやったとしましょう。

この時、Aさんは主観的に貢献できると思いやった事ですが、Bさんにとってその仕事は経験を積む為にやっておきたかった仕事かもしれません。

 

他にも、人の家の庭を勝手に掃除したり、お花を植えたり...

 

一歩間違えるとこういった解釈になる人もいると思います。

 

自分の貢献感を満たすために、明らかに他者の迷惑となる行為でも、他者の気持ちを考えずにやってしまう事はいかがなものかと思います。

 

哲人は、他者がどう受け取るかは他者が決めることであって、自分が決めることではないと言っていましたが、他者の迷惑となり得る行為で得た貢献感は果たして「幸せ」なのでしょうか。

 

哲人:「」

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